剣を置き、鎧を脱いでエミシと対話! 仁道の鎮守府将軍「小野春風(おののはるかぜ)」

武人
国立国会図書館デジタルコレクション:『前賢故実(巻第4)』菊池容斎 (武保) 著 (雲水無尽庵, 1868)

はじめに

「春風」という、いかにもやさしげな名前の将軍がいました。

名流・小野氏の流れをくむ平安時代前期の武人「小野春風」です。

その名が歴史の表舞台に出るのは、東北地方を本拠としていた「エミシ」との戦争によるところが大きいでしょう。

列島がまだひとつの国家ではなかった時代。エミシとその土地を統治下に置こうとした大和ですが、精強で勇猛な彼らとの戦闘は泥沼の様相を呈していました。

なかでも東北最大といわれるエミシと大和との戦が、878(元慶2)年に勃発した「元慶の乱」です。

元慶の乱 - Wikipedia

この戦線を終息させるべく起用された小野春風は、その信念においていったいどのような行動をとったのでしょうか。

その捨て身の誠意を感じさせるエピソードを、紹介したいと思います。

※本記事での「エミシ」とは朝廷の支配下にあった「俘囚(ふしゅう)」を中心としていますが、これらを一括して「エミシ」と呼称します。

抗戦エミシの本拠地に、丸腰単身で潜入?

元慶の乱鎮圧を企図し、鎮守府将軍に抜擢された小野春風。
膠着した戦線を打開するため、出羽権守に就任した「藤原保則」たっての推挙による抜擢人事と伝わっています。
保則もまた、貴族でありながら心ある善政で知られた辣腕の行政官でした。彼が赴任したのちの東北戦線では再軍備と並行して圧政を改め、エミシたちに備蓄米である「不動穀」を配給するなどの懐柔策を行いました。

陸奥国府は現在でいう宮城県多賀城市の「多賀城」でしたが、当時の鎮守府は岩手県奥州市の「胆沢城」へと移転していました。

胆沢城跡現地案内版(筆者撮影)
胆沢城跡現地案内版(筆者撮影)
胆沢城跡筆者撮影)
胆沢城跡(筆者撮影)


精鋭を率いた春風は局地戦でエミシ勢を撃破。しかしその後にとった行動は朝廷側の面々を驚かせました。
それは単身でのエミシとの直接交渉。

この時彼は鎧を脱ぎ、剣などの武器も持たないという文字通りの丸腰でたった一人、エミシの本拠地に向かったといいます。

それというのも、幼少期を陸奥と国境を接する辺境で過ごしたとも伝わる春風は、エミシの言葉=夷語を話せたことが大きく起因しています。

既に降伏の意思を見せ始めていたエミシたちでしたがその真意を測りかね、鎮守府側では徹底的な武力制圧を主張する声が主流でした。
しかし同年9月末、前述の通り単身で敵地へと潜入した春風はエミシたちとの交渉を成功させ、降伏文書とエミシの指導者らを伴って帰還。

12月には200名にも及ぶエミシたちが降伏の意思を願い出てきました。
それでもなお、彼らへの畏怖から慎重姿勢を崩さなかった面々に春風は反論します。
そして、独断で春風の意見を容れたのが全権を委任されていた藤原保則だったのです。

続々と投降するエミシたちでしたが、徹底抗戦を貫こうとする勢力への追討命令が朝廷より発せられます。
しかし保則はこれを撥ねつけて慰撫政策を具申。翌879(元慶3)年3月、朝廷はこれを承認し鎮圧の軍を解散します。
ここに元慶の乱は終結をみたのでした。

離島防衛時代には兵士の安全策を優先!

小野春風については、指揮官としてのこんなエピソードもあります。
それは元慶の乱の8年前、春風が「対馬守(つしまのかみ)」として対馬に赴任した時のこと。

当時の対馬は新羅からの国家規模での海賊行為や犯罪の脅威に曝されており、その防衛を春風が任されました。

在任中、春風は兵士たちの甲冑の薄さに気が付きます。
そこで朝廷に諮り、大宰府が保管していた布を用いて「保侶衣(ほろぎぬ)」1,000領を製作させました。
「保侶」とは甲冑の後ろになびかせて流れ矢から身を護る防御装備という解釈が一般的ですが、当時の物は定かではありません。防寒・防水にも使えるマント状を想定する説もあります。

母衣引(ほろひき) - 宮内庁
東京国立博物館デジタルライブラリー / 保侶衣推考・保侶衣推考追加《武家古実》

これに加えて兵糧の糒(ほしいい)を携帯するための革袋も1,000領用意し、兵士の装備充実に心を砕きました。

兵たちの身を守ること、そして食べるものを確実に持ち歩けること。
春風の「命」に対する願いがよく表れている行動だったといえるのではないでしょうか。

“春の風”の名にし負う男

武勇と仁の心を併せ持った希代の武人、小野春風。
一方では歌人としても優れており、勅撰和歌集である『古今和歌集』には春風の詠んだ2首が収録されています。

  • 花薄(はなすすき) 穂にいでて恋ひば 名を惜しみ 下ゆふ紐の むすぼほれつつ(巻13‐653)
  • 天彦の おとづれじとぞ 今は思ふ 我か人かと 身をたどる世に(巻18‐963)

前者は「あからさまな恋心が噂になってしまうのは嫌だ。それを察してか袴や裳の紐が固く結ばれてほどけずにいるよ」といった意味。


後者は若い頃に役職を解任され落ち込む春風に、ある女性が見舞いの歌を送ったことへの返歌で「せっかくのお便りですが今はお会いしにいきません。あまりのことで自分が誰かもわからないありさまです」と心痛を吐露しています。

歴戦の武人といったイメージからは、ずいぶんとギャップのある情緒的な歌ではないでしょうか。
この2首からもなんとなくロマンティストの印象を受け、やさしく強い“春の風”という名にふさわしい人柄だったことを想像してしまいます。

帯刀コロク:記

小野春風 - Wikipedia

【主要参考文献】
『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
『故事類苑』「人部 洋巻 第2巻」(ジャパンナレッジ版)
『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社

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