節分の丸かぶり巻き寿司、無言で頬張る「恵方巻(えほうまき)」
立春の前日である春の節分には、大豆などをまいて鬼を払う豆まきの行事が全国で行われていますね。
「鬼やらい」「追儺(ついな)」等とも呼ばれ、無病息災を祈る儀式として根付いています。
そんな中、その年の恵方を向いてまるまる一本の巻き寿司を無言のまま食べる「恵方巻」も全国規模で浸透してきています。
関西が発祥とされ、近年では他の地域でも見られるようになりましたが行事として定着したのはさほど古くはなさそうな印象もありますね。
いかがわしい遊びが起源というのはほんとに本当?
そんな恵方巻ですが、起源についてなかなかスキャンダラスな噂が囁かれているのはご存じでしょう。
あり体にいうと昔旦那衆が遊女に丸のままの太巻きをくわえさせ、その様子を眺めて楽しんだというものです。
これが史実だとするとさすがに悪趣味といった印象は拭えず、実際にそれを知って恵方巻を食べることをやめたという声も散見されます。
たしかに気分がよいとはいえない説ですが、そもそもこのお話はどういった史料に記録されているのでしょうか。
実は「節分の巻き寿司丸かぶり」は、その起源が詳らかではない謎多き行事食なのです。
本記事ではこの問題に関する研究論文を参照しつつ、「恵方巻のほんとう」について考えてみたいと思います。
江戸東京博物館の学芸員さんがまとめた論文では?
恵方巻の研究については民俗学の分野で多く取り上げられており、以下は江戸東京博物館の学芸員・沓沢 博行(くつざわ ひろゆき)氏の論文における分析です。
(「現代人における年中行事と見出される意味 : 恵方巻を事例として」『比較民俗研究 23号』筑波大学比較民俗研究会 2009)
そこでは恵方巻に関する5つの起源説が紹介されており、これを順に見ていくことにしましょう。
「大阪・船場の商売繁盛祈願」説
上記論文では1つめに、大阪・船場で幕末~明治の初めに商売繁盛・無病息災・家内円満を祈願して行われるようになったという説を挙げています。
船場は豊臣秀吉の大坂城築城による労働力需要がきっかけで生まれた町とされており、やがて繊維業者の集中で知られる商業地として栄えました。
商家が多かったことから、そこで始まった風習が広まったものという説です。
出典は「すし組合」という組織が発行したチラシの記述とされています。
「大阪・船場の遊女願掛け」説
2つめの説も大阪・船場が舞台ですが、発祥を色街としている点が特徴です。
色街に勤める女性が階段の中ほどに立ち、巻き寿司を丸かぶりしながら願い事をするとそれが叶ったというジンクスにあやかったとするものです。
出典は「スーパーU社のチラシ」とされています。
「お新香の時期の招福祈願」説
3つめは江戸時代の中ごろ、新しい香の物(漬物)が出来上がる節分の時期にこれを巻き寿司に仕立てて恵方を向いて丸かぶりし、招福を願ったことに由来するという説です。
これは現在でいうところの恵方巻丸かぶりにかなり近い姿の起源説ですね。
出典は「スーパーD社のチラシ」とされています。
「大阪・船場の旦那衆遊び」説
4つめはまた大阪・船場が発祥の説です。この町の旦那衆が遊女を相手にお大尽遊びをして、太巻きを丸かぶりさせたことに由来するというものです。
論文中で「お大尽遊び」の詳細な内容には触れられていませんが、なんとはなしに健全ではなさそうな印象を受けますね。
出典は上記論文で参照されている岩崎竹彦氏の研究によるもので、1990年代に「大阪海苔問屋協同組合」の事務局長を務めていた「藤森秀夫」氏からの聞き取りとしています。
「武将の戦勝ゲン担ぎ」説
5つめは戦国武将(伝・堀尾吉晴)が節分の日に巻き寿司を食べて出陣したところ勝ち戦になったため、そのゲン担ぎが元になったという説です。
しかしこの説は史実との照合から論文中で信憑性を否定されています。
それというのも株式会社山本海苔店によると、巻き寿司を作るための板海苔の発明は安永年間(1772~1781年)のことであり、堀尾吉晴の時代とは130~170年ほども離れているためです。
もっともこの起源について現在では「巻き寿司のようなもの」とぼかして表現されることも指摘されています。
出典は上記4つめと同様、藤森秀夫氏からの聞き取りによる情報としています。
最古の文字資料は1932(昭和7)年の寿司店チラシ
上記5つの起源説を概観しました。
これらをご覧になって既にお気付きのことと思いますが、恵方巻の起源については古い文献史料での記載が見つかっておらず、いずれも組織や店舗のチラシあるいは聞き書きといった情報に限られているのです。
沓沢氏の論文によると節分の日に巻き寿司を丸かぶりすることに関する最古の文字資料は、1932(昭和7)年の「本 福寿司(大阪天満:現在は閉店)」発行のチラシとしています。
以下、そのコピーを論文から引用してみましょう。
巻き寿司と福の神
節分の日に丸かぶりこの流行は古くから花柳界に、持て囃されていました。
本 福寿司チラシ(「現代人における年中行事と見出される意味 : 恵方巻を事例として」『比較民俗研究 23号』筑波大学比較民俗研究会 2009)より
それが最近一般的に宣伝して年越には必ず豆を年齢の数だけ喰べるように巻寿司が喰べられています。
これは節分の日に限るものでその年の恵方を向いて無言で一本の巻寿司を丸かぶりすれば其年は幸運に恵まれると云う事であります。
宣伝せずとも誰云うともなしに流行って来た事を考えると矢張り一概に迷信とも軽々しく看過すべきではない。
(中略)
一家揃って御試食を願い本年の幸運をとり逃さぬようお勧め申します。
ここでいう「年越」とは節分から立春へと移行する昔ながらの時間感覚を指していると思われますが、当時すでに「いつの間にか発生した風習」というニュアンスを匂わせる文章ですね。
沓沢氏の論文によるとやはり海苔や寿司の業界が仕掛けたプロモーションにおいて、歴史的な背景を演出することである種の権威付けを狙った可能性が指摘されています。
また、大阪での寿司職人への聞き取りによると大正時代の初め頃にまでこうした風習を遡ることができるといい、この辺りが現状で確認できるもっとも古い事例と考えられています。
「恵方を向く」のは京都上賀茂の風習にも?
さて、恵方巻の儀式的な要素として「無言」「丸かぶり」といったキーワードが挙げられますが、もう一つ「恵方を向く」というのも重要ですね。
「恵方」というのはその年の吉方位のことで、陰陽道による考え方とされています。
歳神である「歳徳神」の座す方角であるといい、年によってその位置は変動することが特徴です。
この「節分に恵方を向く」という行動について、興味深い記述を見付けました。
荒井 三津子氏・清水 千晶氏の論文です。
(「食卓の縁起に関する研究I ー恵方巻の受容とその背景ー」『北海道文教大学研究紀要 32号』北海道文教大学 2008)
上記論文では松本美鈴氏の研究を引用し、大正時代末~昭和初期に食事を担当していた人への聞き取り調査をまとめた『日本の食生活全集』及び1962~1964(昭和37~39)年に全国規模の調査を行った『日本民俗地図Ⅱ 年中行事1』を精査した結果を報告。
それによると、京都の上賀茂地区では「節分の日に年の数だけの豆を、恵方を向いて一口で食べる」といった内容の記述を見出しています。
同松本氏の結論としては1970年頃までは恵方巻が一般家庭に節分の行事食として浸透していた事実は見られないとしていますが、京都上賀茂地区の「恵方を向く」「一口で豆を食べる」といったキーワードは興味深い符合といえるでしょう。
特筆すべき2010年のジョークtweet
恵方巻を扱った論文の内容を概観してきましたが、この風習がいかがわしい遊びに由来しているのではないかという疑念の答えには至っていません。
ところが、2010年の節分にTwitterへ投稿された平民金子さん(@heimin)の呟きにこのようなものがあります。
そしてこれには直後にこのような続きがあります。
「赤丸稲荷」とは現在の東京都中央区の「新富稲荷」のことと思われ、そこは明治期に新島原遊郭が設けられた地域でした。
それはさておき、上記のtweetはジョークであることが明記されており、もちろん「赤丸稲荷の古文書」なるものがどういった史料であるかなどには触れられていません。
そしてこのtweetにはさらに続きがあります。
このように2010~2012年まで3年連続で関連するジョークをtweetしておられ、「デマ」と明言されてもいます。
しかし初年のtweetに対する「いいね」は約1800件、リツイートに至っては5700件を超えています。
このことから相当の拡散力をもって、一定数の人々に印象付けられたと考えられるでしょう。
同アカウント内で繰り返し「デマ」と明言されていますが非常にインパクトのある説にも感じられるため、これを信じてしまった人がいたとしても不思議ではありません。
恵方巻の起源説のうちには確かに「花街」「遊女」といったキーワードが散見されますが、いずれも確実なものではなく、なおかついかがわしい遊びに由来するという明確な証拠も見つかっていないというのが現段階での結論といえるでしょう。
「恵方巻」は実は商品名!
これまで繰り返し「恵方巻」という語句を用いてきましたが、実はこの言葉は民俗用語ではなくコンビニチェーン「セブン‐イレブン」の商品名なのです。
節分用太巻きが同社で商品化されたのは1989(平成元)年のことで、広島県の個人オーナーの一人が大阪での風習をヒントに提案したことがきっかけでした。
1998(平成10)年には「丸かぶり寿司 恵方巻」の商品名で全国展開が始まり、現在の知名度と浸透を見るに至っています。
新たな風習は日々育っている
最後に恵方巻の風習について、個人的な感覚としてのレポートを試みたいと思います。
筆者が育ったのは和歌山県の最北東端部、大阪府と奈良県に境を接する橋本市という地域の山間部です。
この村では恵方巻の風習はなく、周辺や市街地のお年寄りに聞き取りした範囲でも昔からの行事ではないという印象が強いといえます。
試しに市史で節分の行事食の項を調べてみたところ、大豆やこんにゃく、麦飯などは記載されていましたが巻寿司のことは見当たりませんでした(『橋本市史 民俗・文化財編』 橋本市史編さん委員会 2005)。
比較的大阪に近い地域ではありますが、古来の行事としての浸透は認められないといえるでしょう。
そもそも本当に古くからの風習であれば古文献に記載されていると考えられ、そうではないということがより恵方巻の起源に対する疑問を膨らませているのではないでしょうか。
恵方巻の起源に関する愉快ではない噂を耳にして、その風習を家庭で取りやめたという例をしばしば耳にします。
しかし結論としては「詳細不明」というのが実際のところであり、いかがわしい遊びに由来するという確たる証もまた提示されていません。
中にはかなり強い言葉で恵方巻を非難するケースが見受けられますが、そうした方々はどの記述や史料をもとにそう仰っているのかということにも関心があります。
明確な文献があればぜひご教示頂きたいところですが、現状を鑑みるにおそらく信憑性のある一次史料は発見されていないのではないでしょうか。
とはいえ、新たな民俗行事の形成にいつの間にか立ち会っていたという感覚も事実です。
近現代を通じて育ってきた風習も願いを込めて楽しく行うことに何らの咎はないように思われますが、これが100年・200年と続いたあかつきには立派な伝統といえるかもしれませんね。
帯刀コロク:記
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