山そのものが要塞! 中世山城の威容
みんな大好き日本のお城。
県庁所在地などには特に、旧藩時代の城郭が残っていて(あるいは再建されて)、街の象徴として愛されていますね。
天守閣を備えた、いわゆる「近世城郭」もかっこいいのですが、最近激しく心揺さぶられているのが「山城」です。
文字通り、山の自然地形そのものを要塞化した中世のお城のことです。
天守のような派手な構造物はありませんが、敵の侵入を阻む様々な防御機構の痕跡を見ることができます。
とはいえ、そのほとんどは今や木々が生えこんで、見た目は「山」そのものです。
したがって遺跡を見るためには、登山の準備をしなくてはならない所も多いのです。
そんな中世山城のひとつ、「長藪城(ながやぶじょう)」の址を訪れました!
長藪城とは
長藪城とは和歌山県の北東端に位置する、橋本市に所在する山城です。
大和と河内の国境にあり、すぐ北を金剛山に連なる嶺が塞ぐという、交通の要衝に立地しています。
正確な年代は詳らかではありませんが、文明(1469~87)の頃に在地の「 牲川(にえかわ)筑後守義春 」が築城したものとされています。
牲川氏は義春の祖父・頼俊の代には楠木正成に仕えていたといいます。
正成の敗北と千早城の陥落によって頼俊は一時、十津川村へと待避していましたが、義春の代で
紀伊国守護の畠山氏に従い、 紀北地方へと戻ってきたそうです。
牲川氏はこの地で以降数代を経て、やがて織田信長の配下に属しますが、難攻不落の堅城も天正十三年(1585)、羽柴秀吉の紀州攻めによって落城するのでした。
住宅街を抜けて、小山の尾根伝いを行く
長藪城の登山道へは、「城山台」という市内最古の住宅街を抜けて至ります。
文字通り背後に長藪城を背負う恰好ですので、「城山」。
北に向けて逆U字状に連なる山を利用した長藪城には「東の城」「西の城」「出城」があり、現在3つの登山口があります。
今回は東の城から取り付いて、尾根伝いに西の城へと縦走し、もっとも標高の低い出城方面の登山口へと降りるコースを行きました。
長藪城を周回するなら、これがもっとも行きやすいルートだと思います。
「堀切」などの防御施設が残存
道は「長藪城址保存会」の方々が整備してくれているそうで、目印の赤テープや案内板が各所に設置されています。
ただ、案内なしで初めて行くと少し心細い箇所もあるかと思います。
尾根沿いに、テープを道標にひたすらまっすぐ進んでください。
途中かなりのアップダウンがありますので、気を付けて。
東の城に到達
これまでの道のりの最奥部、ぽっかりと平坦なスペースが開きます。
ここが「東の城」の頂点です。
案内板も立っており、「標高347.6m」の表示が見てとれます。
土橋状の連結部を通って、西の城へ
東の城の頂点へと至る直前に、西の城への分岐点を示す案内板があります。
二つの山をつなぐような尾根に至るため、これから少し下ります。
西の城へと至る道には、他の登山道からの合流点があります。
ちょうど東の城と西の城の真ん中の谷を遡上する、林道を登ってきたことろです。
ただし途中がけくずれで道がふさがっており、それを乗り越えてこなくてはなりません。
そして西の城へ
道なりにぐんぐん高度をあげていくと、やがて右手にぽっかりと平坦地が開けます。
東の城よりもずいぶんと広い、西の城です。
こちらが主郭と考えられており、土塁や段状の構造を確認できます。
標高347.1mの表示があります。
最後は出城へと至り、登山道に降りる
西の城から道なりに高度を下げていくと、途中にやはり堀切がいくつもあります。
向かって左側が崖面になるので、気を付けてください。
難攻不落といわれただけあり、さすがに一筋縄ではいかない自然地形をうまく利用しています。
実は出城から登山口へと降りていく道が、もっとも急傾です。
結び目付きトラロープが張られていますが、慎重に降りてください。
竪堀という防御機構も途中の急傾斜に設けられています。
低い山でも侮らないで! 必ず軽登山装でお越しを
長藪城は中世山城の遺構をよく残した、歴史的にも重要な遺跡です。
高い山ではなく、周回してもおよそ1時間半ほどですが、くれぐれもきちんと準備をしてお越しください。
足を滑らせると危険な場所も当然あり、探訪には少なくとも軽登山装が必要です。
この地域の歴史を少し仕入れてから登ると、より楽しみも深まりますね。
帯刀コロク:記
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